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春すぎて…本当は辛い百人一首 ~その壱~ 

カテゴリ:徒然記事

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
「春がすぎて夏が来ていたらしい、天の香具山は(夏になると)白い衣を干すというから」

暦の上ではもう夏ですね。なんともみやびやかなブログになって来た感がありますが、でもここで一般常識の範囲で済む内容にはなりませんからね。w


実は上記のバージョンは後に「修正されたもの」で、元は『万葉集』にあり、そのバージョンは


春すぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山


万葉仮名で「春過而夏來良之白妙能衣乾有天之香來山」というもの。

…で、ナニがどう違うのかといえば、その言葉尻です。
同じ「来た」という語でも、言葉尻が「来ちゃった」と「来てしまった」では全くニュアンスが違いますが、実際この二つの短歌のバージョンにはこのようなニュアンスの差があるんですね。
そこで、その元の短歌のニュアンスをできるだけわかりやすい現代語に置き換えて私的に訳してみると

「春がすぎて夏が来てしまったらしい天の香具山に白い衣が干してあるではないか」

という具合に、小倉百人一首のバージョンが「のほほん」としたニュアンスを強調しているのに比べて、万葉集のバージョンは意外性や驚き、ある種の緊迫感を感じたようなニュアンスが強いものなんですね。

この歌の作者とされる持統天皇が生きていたのは飛鳥時代。西暦600年代後期には季節の変化を感じないほど性能の良い冷暖房装置が存在した! 
…とは、いかに宮廷といえど、そもそも考えられようもないことで、実際にそんなものは無かったことは容易に判断できますね。
なのに季節の行事を目撃するまで、より身近な物事や、寒さ、暖かさ、暑さという気温変動ですら季節の移り変わりを感じられなかったかのような内容の短歌を詠んだのでしょう?

この人にナニがあって、どんな人だったのかと思い作者の持統天皇をウィキペディアで見てみると、『大化の改新』で知られる天智天皇(中大兄皇子)の娘で、「女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した」「壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある」とされるほどの辣腕かつ野心家だったらしい。およそ毎日を「のほほ~ん」と送っていた「雅」なお方とは、はなはだ言いがたい感がある。

思うに日本を国家として整える草創期にあたって、政争や戦乱をかいくぐり、政務や統治に関わる激務に追われ、当然、人間関係も複雑で、心労やストレスは言うに及ばず、ほっと心が休まる暇も無く、ふと見たら「天の香具山に白い衣が干してあるではないか」なんと、もう「春がすぎて夏が来てしまったらしい」というのが実際ではなかったろうか? と、思えて来ます。

「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」

この短歌を読んで「昔の人は短歌でも詠んで、のほほーんと毎日のんびりしてストレスも少なくてよかったんだろうな~」なんて思っていられる現代人こそ、飛鳥時代の先人たちから見ればよっぽど「雅な人々」なのかもしれないなあ、と思えてならないのであります。

日本人には持ち前の持久力がある…の?(改訂) 

カテゴリ:楽して筋トレ

確か「日本人には持ち前の持久力がある」みたいなことが定説のように言われていたんじゃないかと思いますが、反面「日本人は熱しやすくて冷めやすい」とも言われていますよね。友人知人を見回しても「三日坊主」のように見える人の方が多いと思えるのは、類は友を呼んでいるのでしょうか? それとも偶然? 気のせいでしょうか…?

この相反する説はどちらが正しいかということではなくて、物事に対してどのようなタイプの人が多く見受けられるのか? という場合には往々にして必ず当てはまるものだと思います。
ただ…。現在の諸々の社会状況や多くの人の声を見るにつけて、どうも今現在はやはり後者の方が多いって感じがしますね。(- -;)

精神論はさておいて、実際の身体の方に視点を向けると、欧米、中東、アジア大陸各国などボデイビルが盛んな国の選手と日本のボデイビルの選手がトレーニングで扱っているバーベルやダンベルの重さや、マシンの負荷はほとんど変わりがないそうです。
よく言われる「ドーピング」の問題を加味しても、ホルモンバランスをいじって、重い物さえ持ち上げられれば大きな太い筋肉になるというわけでは無いらしいんです。
以前からよく引き合いに出しますが、例えば昔、小柄な農家のおばちゃんが60キロくらいの米俵をひょいと持ち上げてすいすい倉庫に納めていくといったことと無関係ではないでしょうね。

筋肉の繊維には短時間に早く大きな力を出す「瞬発筋」と一定時間継続的に力を出し続ける「持久筋」という筋繊維があって、その見た目の色から「瞬発筋」が「白質筋」、「持久筋」が「赤質筋」と呼ばれます。ここで一定の年齢より上の方は「おや?」と思ったかも知れませんね。そう、以前は「瞬発筋」が「赤質筋」、「持久筋」が「白質筋」だと考えられていて実際にそう教えられていました。が、その後の研究の結果、それは逆だったことが判明したんですね。
これは赤身魚のマグロやカツオなどは世界中の海を泳ぎ回る回遊魚ですが、白身魚の鯛やヒラメなどは一定の地域に生息し天敵から瞬時に猛スピードで逃げることが主な運動であることからもうなずけます。

「日本人には持ち前の持久力がある」というあの説は第二次世界大戦前後の日本人の筋肉には赤質筋より白質筋が多い傾向にあったらしいことから、以前の間違った筋繊維の性質に対する認識に希望的な観測が相まって流布してしまったものらしいんですね。もちろん、この筋繊維の比率は個人差があって国や民族単位で一概に言えるものではないことは常識です。

が、それにも関わらず、やはり日本で国民的なメジャーなスポーツと言えば「野球」です。これは、試合時間中フィールド内を走り回るサッカーと比べるとわかりやすいですが、これほど瞬発力に偏ったスポーツはなかなかありませんね。
さらに、オリンピックでメダルが取れないと決まって、民族的な体格の違いとか、身体能力の差、云々が以前からよく言われますが、骨格を比較すると、アフリカ系の人種と日本人の骨格に運動学的な差はほとんど無いという研究結果があるようです。
そうして考えると運動能力や筋肉の大きさの差は主に持久筋の量や筋繊維の太さではないかということになりますが、ひょっとすると日本人はこの持久筋の少なさ細さを精神性や技巧によって補って来た。「根気」とか「根性」「がんばり」など精神力を重視して、さらに「コツをつかむ」ことで技術面でも補いながら、切り抜けて来たという「長年の癖」が身に付いているのかもしれませんね。

さてさて、競技スポーツやプロスポーツについてはそれぞれの専門家の皆様に期待しつつ、現在の日本の医療技術をもってすれば、よほどのことがないかぎり特にスポーツも筋トレもせず長くは生きて行けそうですが、晩年、寝たきりや車いすに座るようになってからリハビリに筋トレをやらされるのと、元気なうちから継続して筋トレしておくのとでは、やはりかなりの差が出るものと思われますね。
そういえば現在、白身魚で日本の魚の代名詞かつ代表の「鯛」はお正月とかお祝い事とかよっぽどの機会が無いかぎり、食べたくて仕方ない魚とは言いがたくなってしまい、乱獲が懸念されるほど人気で今や国民的な魚の「マグロ」は高タンパクの赤身魚。ひょっとして日本人の多くは自分に足りない「持久筋」を食べることで無意識に補おうとしてるんじゃなかろうか? と疑りたくなります。w

娯楽的なスポーツ、実戦的な格闘技など様々ありますね。年を取ってから死ぬまで続けるには日本の伝統的な武道なんかも良いかもしれませんが、もっと手軽にいつでもどこでもできなければ継続は難しいですよね。
地球の重力とは死ぬまで付き合うもの。重力に負けない身体を死ぬまで保つために、未経験でも、いくつになっても実践、継続できる最適な運動は今のところ「筋トレ」しか無いそうです。

■動画:ベトナム系アメリカ人のボディビルダー、ピーター・リーさん■

今さらですが「ボデイビル」について。 

カテゴリ:楽して筋トレ

独立記事にしました。日本版ウィキペディアの「ボディビル」の項目を見ると、あまりにもまあ、いやはやなんともといった感じだったものですから。( ^ ^;)

「ボデイビル」といえば、筋肉に負荷をかけ科学的に肉体構築をすることです。さらに詳しく言うと、ここで言う「科学」というのは運動学、栄養学、生理学、医学などで、20世紀の冷戦時代よく見られた「化学」と「科学」を混同した考え方や方法論によるものではありません。
全てのスポーツ競技で、結果を出す過程のほとんどが、何らか地道なトレーニングによっていますが、多くの競技スポーツと同様に、自分と自分の肉体の持つ能力の限界に挑戦し、心身を鍛え上げ大会や選手権などの目標に向けて結果を出していくという意味では、まぎれも無くれっきとしたスポーツのひとつです。
が定期的に「筋トレ」をしている人でもそれが「ボディビル」の一種だとは思っていなかったり、また多くの日本人は「ボデイビル」をスポーツだと思っていないふしがありますね。
それどころか、むしろ国内ではまだ奇異な目で見たり揶揄したり、中には「本当は力の出せない見た目だけの無駄な筋肉を付ける」「特殊美容」と信じている人もいる有様です。
多分、団体や個人による遊戯的な性格を持つレジャースポーツとは一線を画すストイックな性格を持つことや、重量挙げやベンチプレス競技のように、バーベルなどを持ち上げるといった過程や習得した技術を実演して競ったり、見せて観戦する競技で無いことが手伝っているんでしょうね。

それでも、欧米、中東、アジアでも、ボデイビルが盛んな国とオリンピックで多くのメダルを取る国が概ね重なっているのは言うまでもありませんけど、現在おおよそのスポーツで必要な基礎的な筋力トレーニングは、主にボディビルの理論と実践から生じて広まったんですよね。
確かに、日本国内で同じ日本人相手に機敏さを競う競技をしたり、日本女性の主な好みに応えるのが目的なら「過剰な筋肉は不要」なのかもしれないけれど、世界を相手に競技するには、やはり潜在的に「必要な筋肉が不足」しているということと、ボディビルに限らず必要な「科学できる理論的な頭脳」も不足しているというのが、現実なのかもしれません。

まあ、オリンピックの金メダルの数は、スポーツを「娯楽」や「お家芸」に言い表される「芸事」としてとらえたり、精神修養など「修行」のような意識ですることと、競技、演技によって「エキシビジョン=展示、みせびらかし」して賞賛や栄冠を勝ち取ることを目的としたり、それを意識してすることとの差でしょうか? いずれにしてもその瞬間に向けて継続と持続とを持って身につけられた表現力と実力の差を如実に示す結果のように思えたりもしますが、そのあたりは専門家におまかせすることといたします。m( _ _ )m

そういえば、ひと昔前「乗馬」や「モータースポーツ」も「人間が走っている訳じゃない」からスポーツじゃないと言っていた人もいた記憶があります。(汗)
現在一般に広まっている「フィットネス」も美容法的にとらえられているかも。最近あまり聞かないけど「美容体操」って言葉がありましたしね…。




参考リンク:社団法人日本ボディビル連盟